由緒
愛宕山 長福寺の由緒です
宮崎県都農町に在する愛宕山 長福寺の起こりと、今に至る歴史をご紹介します。
天文年間 開創
寺歴によると天文年間(1,532 - 1,555)に大和の国(現在の奈良県)の修験者である和泉坊 清教印一向が当地に流着され、草庵を結び邑をなし隠居されたのが始まりとされています。
慶長二年(1,597)に阿弥陀如来像の開眼を行いそれ以来、修験道の霊場として常に人々の信仰を集め江戸時代から明治初年までは、寺子屋を開くなど広く大衆の教化に尽くし三密加持の道場として栄えてきました。
ところが明治元年の神仏分離令、さらに明治三年には大教宣布などに伴って発生した廃仏毀釈の法難にあい一時は廃寺となってしまいました。
その後、清祐和尚が再興され現在に至ります。
現在の本堂(金堂)は檀信徒の皆様のご協力のもと、平成の大改修により建て替えられた堂となっています。
愛宕山 長福寺は真言宗 醍醐派の寺院です。これはまた密教寺院であるとともに修験道の寺であることを意味します。
修験道とは、”野に伏し 山に伏し 我 仏と共に在り”という強い自覚のもとに修行を続ける山伏の世界です。
大円作 不動明王立像
本尊は廻国行者であった大円よって彫刻された、不動明王立像です。素材を生かし、修験的なノミの跡が大胆な木端仏です。
本尊の他二体の不動明王を有し、特に行場滝に祀る波切不動尊(不動三尊像)は壇信徒をはじめ多くの人々に、交通安全守護の仏として信仰をあつめております。
また、聖観世音菩薩像、地蔵菩薩像、開山清教作 阿弥陀如来像などの仏像等を安置しています。
※現在、本尊始め幾つかの仏像については、常時のご開帳を差し控えさせていただいております。
大円(1,773 - 1,835)
本尊不動明王立像を彫った大円は、越後の国で生まれ、享保元年(1,801)に高鍋藩川北地方(現在の都農町)を訪れ、享保五年(1,808)頃まで逗留しその間、彫仏活動を行った廻国行者。
海辺の尾鈴山麓から米良山周辺、椎葉山大川内さらに肥後球磨郡まで巡歴して神仏像、役行者(えんのぎょうじゃ)像、大師像、他神面を含め多数の作品を残した。
やがて真言宗新立寺(西米良村)の第八世の住持として迎えられ、六十二歳で同地に没す。
神仏習合
長福寺はまた、神仏習合(神仏混淆)寺院でもあります。神仏混淆の名残を当山の愛宕大権現を祀る権現堂やそれに付随する行事が今に伝えています。
愛宕大権現は、山岳信仰と修験道が習合し、本地仏で地蔵菩薩(勝軍地蔵)です。垂迹神が伊邪那美とされています。
毎年十二月に愛宕権現祭を行っております。 また、当山には愛宕権現堂の東隣に、稲荷大明神をお祀りする祠もあり、毎年、初午(はつうま)祭を行っています。
そもそも神仏習合(神仏混淆)とは日本仏教と神道か融合し形成されたものです。
魚碑
愛宕山 長福寺のある宮崎県都農町寺の迫地区はかつて寺迫村といい、村人たちが生活する(生きる)為に奪う必要がある自然の生ずる命に対しての尊敬と感謝の念を込めて百万遍祈願を行っていました。
この碑は寺迫網中が魚の供養に建てたものです。
碑の中央部分には十七文字の梵字(光明真言)が2行にわけて刻まれており、右側には「享保六辛丑二月吉日寺迫村為供養也」、左側には「念仏百万遍網中」の文字が刻まれています。
※享保六年(1,721)
かつては寺迫海岸の海まで50メートルもない保安林の樹木が密生する場所に在り、秋の彼岸の折には魚碑まで赴き供養を行っていたと伝えられています。また不漁の際にはこの碑に豊漁を祈願したとされています。
碑は平成の世に長福寺の伽藍内に納められました。現在は本堂の東側に安置しています。